LOGINルファルの言葉の真意を理解するのに、そう時間はかからなかった。“……昨夜の続きは、帰って来てからだ。良いな”修行の地へ向かう直前、あの冷酷無慈悲と噂されるルファルが残した甘やかな約束。それを果たすことこそが、今の自分を信じてもらう唯一の証なのだと、ようやく悟る。――いよいよ、その時が来てしまった。羞恥で顔が熱く染まるのを自覚する。ルファルはリリシアをひょいと軽々と抱き上げると、お姫様抱っこの体勢のまま静かに窓辺へと歩いて行く。重厚なカーテンが夜風に揺れ、月明かりが窓枠を通して、床に白い模様を描いている。ルファルはリリシアを窓縁(まどべり)へと座らせると、両膝の間に片足を割り込ませ、逃げ場を塞ぐようにしてリリシアの前に立った。「っ……」こんな体勢のまま至近距離で見つめられ、リリシアの心臓が跳ね、音を立てる。窓の外には薄月が浮かび、まるでリリシアとルファルの影だけをこの窓枠(まどべり)という箱の中に閉じ込めてしまったかのよう。ルファルがゆっくりと顔を近づけてくる。リリシアはただ、瞳を閉じた。重なる唇。熱が、胸の奥でドキドキと心臓を叩く。やがてルファルが唇を離すと、その静かな声が響いた。「リリシア、月紐を解け」リリシアはただこくりと頷き、今朝ようやく執務に復帰するルファルの為に結んだ紐に指をかける。するりと紐が解けた瞬間、ルファルのさらさらとした髪が零れ落ちた。その紐をルファルは慣れた手つきで取り上げると、迷いなくリリシアの左手首に巻き付け、結び直す。それを合図にするかのように、再び唇が重なった。目をぼんやりと開けば、ルファルの大きな手が、リリシアの顎に触れる。そして。優しく、けれど絶対に拒めない力強さで顎を引き下げられる。「ぁ……」髪をかき分けられ、深く、深く、吸い込まれるような口づけ。互いに瞳を閉じれば、世界から音が消え、ただルファルという存在だけがリリシアの全てを塗り替えていく。やがてルファルが唇を離すと、抗いがたい衝動に駆られ、気づけばリリシアは自らルファルに口づけをしていた。されど唇を離したリリシアを見て、ルファルの表情が一変する。驚きに少しだけ口を開けたリリシアに、ルファルは再び、更に深い口づけを落とした。「ん、は……ぁっ……ルファ、も……」これ以上は、だめ。そう告げようとしたけれど、ルファルの深
* * *その夜、リリシアはルファルの寝室の前に佇んでいた。先程の夕食の席で、着替えを済ませたルファルは終始頑なに視線を逸らしていた。食後に背中越しに告げられた『夜、私の部屋へ来い』という簡潔な命が、冷えた廊下の空気に溶け込み、耳の奥で静かに響き続けている。ソフィラが淡々と用意してくれたのは、透ける程繊細な絹のネグリジェのようなドレスだった。まるで婚礼の夜を準備するかのような装いに、リリシアは気恥ずかしさと胸の高鳴りを隠せない。扉を前にして、心臓の音がうるさい程に響く。指先も微かに震え、扉を叩く勇気さえ出ない。けれどこのままではだめだと、意を決して、コン、と小さくノックしようとした瞬間。ガチャリと重厚な音を立てて扉が開いた。リリシアは驚いて不意に俯くも恐る恐る顔を上げる。そこに立っていたのは、乱れた貴族服を纏ったルファルだった。薄く胸元の開いた、無防備なその姿が両目に映った瞬間、リリシアは息を呑む。するとルファルは無表情のまま、僅かに眉を寄せると、「……そうだったな。これは不快だったか」と呟き、即座に衣を正した。――別邸の折、わたしがその姿に動揺し、すぐに扉を閉じてしまったことを覚えていらしたのですね……。「入れ」「……はい」促されるまま寝室へ足を踏み入れると、背後で扉が静かに閉ざされた。もうじき晩秋へ移り変わろうとしているというのに、この邸宅のルファルの寝室に入るのは初めてのことだった。広々とした寝室には、天蓋付きの大きなベッドがあり、その傍らの窓からは薄月が寂しげな光を投げかけていた。「……リリシア。私がお前の肩で眠ってしまったばかりか、数日の間、深い眠りに就いていたこと……すまなかった」ルファルはそう告げたが、やはりその瞳はリリシアと視線を合わせようとはしない。「いいえ、そのような……。ルファル様が剣を目覚めさせ、無事にお戻りになられただけで、わたしは……」「シャイン皇帝よりすでに聞いているが、アルベルトとテオの元での修行は無事に終えたそうだが、よく乗り越えたな。随分と酷使したのではないか」「……お恥ずかしい限りです。わたしの未熟ゆえ、おふたりには多大なるご迷惑をお掛け致しましたが……」ルファルは短く間を置くと、突然、視線を逸らした。「……テオの下での修行中、呪いが暴走したそうだな」不意に告げられた事実に
* * *やがてリリシアはルファルと共にハクヴィス邸の邸内に足を踏み入れる。すると、ソフィラや使用人達の温かな「お帰りなさいませ」という声が響いた。リリシアはルファルと歩みを進め、重厚な扉の向こう、陽の光が柔らかく差し込む居間で、ようやくふたりは2人きりの時間を手にした。「ルファル様」リリシアが名前を呼んだ、その時だった。ぽすっ、と柔らかな重みがリリシアの肩にかかる。ルファルが不意にその華奢な肩に、そっと顔を預けてきたのだ。その重みは驚く程軽く、ルファルがどれ程疲弊しているかを物語っていた。「ルファル、様……?」問いかけに応えはない。代わりに聞こえてくるのは、耳元で刻まれる穏やかな寝息だけだ。(……お眠りになられたのですね)自分はかろうじて休息を取れたが、ルファルは宮殿での報告を終え、邸宅に辿り着くまでの間、一睡もしていなかったに違いない。どれ程過酷な修行の日々であったのか。そのすーすーという規則的な呼吸に、リリシアは胸を締めつけられるような思いがした。「ルファル様、本当にお疲れ様でした」リリシアはただ静かに、その温もりを全身で受け入れた。* * *それから数日が過ぎた。ハクヴィス邸で深い眠りから目覚めたルファルは、ようやく今日から執務に復帰していた。山積みとなっていた書類を片付け終え、夕日が差し込む宮殿の執務室で、ルファルは重厚な椅子の背に深くもたれ、冷酷な眼差しをカイスへと向ける。シャイン皇帝へ剣の覚醒を報告した際、『ルファルよ、長き修行をよくぞ乗り越えた。前皇帝もさぞ喜んでいることだろう』と労いの言葉を頂いた。だが、肝心のリリシアの修行詳細については、まだ彼女から直接聞けていない。ゆえに、この場にカイスを呼んで聞く事にしたのだ。「――では、これよりリリシア様の修行内容について報告致します」カイスの淡々とした声が、静まり返った執務室に響く。カイスの報告によれば、不在の間、リリシアはアルベルトによって焰の青き檻に閉じ込められ、幾度も打ちのめされ、何度も力尽き倒れた。その都度、カイスとアルベルトの手によって運び出されていたという。更に、テオによる首絞め。雷柱への拘束と生贄の強要。そして、雷の魔術によって作り出された「もう一人の自分」による蹂躙(じゅうりん)――。聞くに堪えない痛ましい所業の数々に、ルファ
リリシアの首元で、ネックレスが神聖な輝きを放ち始める。かつての苦しみさえもその身に抱えたまま、もう一人のリリシアは、淡い霧となって清らかに浄化されていった。すると、その一部始終を眺めていたテオが、呆れたような、けれどどこか隠しきれない驚愕の色をその瞳に浮かべ、気だるげに歩み寄ってくる。「……まさか、結界も張らずに浄化するとはな。……それに、わたしには光がある、だぁ? 俺までその光の中に含まれるってのか」リリシアは穏やかに微笑み、真っ直ぐにテオを見つめた。「はい。テオ様が……貴方が、折れそうなわたしの心を繋ぎ止めて下さらなかったら、乗り超えることは出来ませんでした。……心から、感謝致します」テオはわざとらしくそっぽを向く。「礼とか別に要らねぇ……これで、全ての修行は終わりだ」――――ああ。やっと。やっと、わたしは全てを受け入れ、合格出来たのだ「シャイン皇帝には、俺から伝達しておいてやる。だからとっとと帰りやがれ。……っておい、聞いてんのか――」テオが振り返った瞬間、世界がぐらりと大きく揺らいだ。膝から力が抜け、意識が遠のく。身体が前のめりに崩れ落ちるその瞬間、テオの細くも力強い腕が、リリシアの身体を強く抱き留めた。「おい……っ! ……ったく、熱すぎんだろ」額に触れたテオの指先は、思いのほか不器用で、冷たかった。「昨日の無理に加えて、今まで溜め込んできた疲労が一気に出たか」テオは、はーっとと短く溜息を吐き捨てる。「……たくっ、最後の最後まで。本当に、手の掛かるおもりだ」毒づくその言葉さえ、今のリリシアには遠く、心地よい安らぎとなって心を優しく包み込んでいた。* * *――夜。ルファルは灯台の見える空中に身を浮かべていた。剣の封印を解いて以来、ドラゴンの気配に
* * *翌日の午後、リリシアはエクレール邸のベッドで目を覚ました。夢の余韻に微睡みながら、そっと手探りで探した指先には、もうあの冷たい掌の温もりはない。テオに手を添えられ、確かに眠りに就いたはずなのに。まるで最初から存在しなかったかのように、傍は静まり返っていた。あの独り言さえ、全て夢だったのだろうか。重い身体を起こすと、窓からサァッと吹き込んだ秋風がカーテンとリリシアの長い髪を揺らした。少しだけ開いた窓。――ああ、夢ではないのだわ。テオ様は、確かにわたしと共に、この場所にいた。他人に弱みを見せることを極端に嫌い、同情をも忌み嫌うテオが、わたしにその心を吐露した。まるで「お前だけが特別に不幸なわけではない」と、だから大丈夫なのだと、不器用に寄り添うように。「……テオ様。わたし、必ず乗り越えてみせます」リリシアは身なりを整え、僅かな食事を取ると、修行場へと向かった。やがて、テオがその場でリリシアの幻影を作り出し、リリシアと対峙させる。直後、もう一人のリリシアが電撃を加速させ、鋭い刃を繋いだ長き鞭が容赦なく放たれた。リリシアは必死に清浄なる結界を展開し、それを弾き返す。「……これが最後の命令だ。その幻影を消せ」乾いた秋風に乗って、テオの冷ややかな宣告が響く。最後の命令。けれど、心が痛む。己そのものである幻影を、この手で消すことなど――やっぱり、どうしても出来ない。――どんなに歪んでいても、それはわたし自身。傷つけることなど、出来るはずがない。だから、わたしは結界を張ることをやめた。もう一人の自分へ、ひたむきに駆け出す。だが、閃光が視界を灼(や)き、鞭が右頬を切り裂く。頬に熱い痛みが走った。それでもリリシアはただ真っ直ぐに、己の幻影を見つめて足を止めない。 ――わたしという存在が、ずっと呪いだった。恐ろしかった。出口のない深い沼。終わりなき絶望。姉が呪いに伏したのはわたしの儀式を行ったせい。母に「月影」と蔑まれ、父からさえ冷たい視線を向けられ、まるでそこに存在しないかのように存在を疎まれたのは、全てわたしのせい。幼き頃からずっと、暗闇の中、独りきりで自分自身を責め、鋭い棘で心を切り裂き続けてきた。けれど――今は。わたしの映る世界には、ルファル様がいる。シャイン皇帝、カイス、ソフィラ、そして、魔術師の
お願い、どうか、わたしを――。この終わらない闇から、救い出して。あふれ出す心音の叫びさえも、テオには届いたのだろうか。テオはリリシアの心ごと強く抱き締めた。「……黙って俺に抱かれてろ」その言葉の直後。静寂を切り裂くように夜空でパリ、と鋭い音が鳴り――ドォンという轟音と共に雷が雲を切り裂き、この場だけを覆い隠すように月の光を夜空の裏側へと消し去った。深い暗闇が夜空を包み込む中、テオの腕の中で震えていたリリシアの呼吸が、少しずつ、穏やかさを取り戻していく。けれど、テオの胸元に触れたままの指先が微かに震えたままで、どうしても両手を離すことが出来ない。この温もりを失えば、再びあの呪いの闇へ引き戻される気がして。「どうやら、まだ甘え足りねぇみたいだな」息を吐き捨てる声が、頭上から降ってくる。「お前を消したがっている奴が、夜の闇に紛れてまだ殺気を飛ばしてやがる。このまま帰宅させるのは危ねぇ。今夜は俺の邸宅に泊まれ」その力強い命に、拒絶など出来るはずもなかった。頷くも戸惑うリリシアをよそに、テオはリリシアの両手を胸元から解き、背を向ける。「……テオ、様?」「歩けねぇだろ。おぶってやる、早く肩に掴まれ」ためらいながらも、テオに言われるがまま、その両肩にだらりと両手を乗せる。するとテオは迷いなく立ち上がり、中庭へと続く扉に向かって歩き出す。そして開けた扉の外で待機していたカイスにテオが短く指示を飛ばすと、リリシアはテオの背中に守られたまま、エクレール邸の一室へと運ばれていく。やがて一室の中に入り、カイスの手によって扉が静かに閉められる。室内にはふたりきりの静寂が満ちた。テオはベッドへリリシアを丁寧に下ろす。けれど――。「……っ」ベッドの端で、テオが急に右手で自身の口を覆い、シーツに左の掌を突き立てた。ギシッ、とベッドが軋(きし)む。直後、テオの突いた手は震え、支えきれなくなった体はぐらつき、ドサリ、という鈍い音を立てて、そのまま崩れ落ちた。テオはまるで深い淵に沈むように、リリシアとの間に僅かな隙間を残したまま倒れ込む。「……チッ。雷の魔術切れか」自嘲に満ちた毒づきが響く。「テオ、様……っ」リリシアが弱々しく呼びかけ、起き上がろうとした。しかし、身体には鉛のような重さがあり、力が入らない。テオは限界に抗う瞳をリリシア
* * *リリシアは窓の外に浮かぶ月をしばらく眺めたのち、カイスと共に馬車に揺られ、ハクヴィス邸へと戻った。されど翌日の午後も過酷な修行は続き――気がつけば10日が過ぎ去ろうとしていた。カイスは修行の妨げになるというアルベルトの命により、初日を終えた翌日から特別室の外で待機を余儀なくされている。今日という日も、リリシアはたったひとりで、あの青い炎の檻に閉じ込められていた。淡い光を放つ清浄なる結界は、日が経つごとにその強度を増している。けれど、積み重ねてきた努力の甲斐あって、青い炎の檻の一部を壊すことは叶うようになっていた。(今日こそ、必ず)リリシアは座り込んだまま祈るように瞳
* * *遙かなる修行の地へと向かう道中、ルファルは愛馬から降りて休息を取っていた。柔らかな午後の日差しが、木々の間から差し込んでいる。されど、秋風が頬を撫でた時。ふと胸元から伝わった微かな不穏な予感に、ルファルは眉をひそめる。白銀の輝きを纏う枠に嵌(は)め込まれた小さな満月のような水晶に、細いチェーンがしなやかに風に揺れたこの胸元のブローチは帝都にてリリシアから受け取ったものだ。今頃、アルベルトの元でリリシアは修業に励んでいるはずだが――、胸騒ぎが消えない。リリシアに何かあったのだろうか。胸
* * *扉の先、轟音と風が吹き荒れる。連結部へ出た瞬間。ルファルは淀みない動作で一段目の踏み台に足をかけた。月の魔術を使い、重力を無視するかのような跳躍で妻面のハシゴへと飛び移る。そのまま鉄の手すりを掴み、滑らかな動作で汽車の屋根まで登っていく。リゼルもまた、風の魔術を使い、羽根のような軽やかさでルファルの後を追って屋根へと昇り降り立った。ふたりは低く姿勢を保ち、鋭い視線を頭上の空へと向ける。そこには、夜の残滓を形にしたような、カラスに似た怪異が2体、旋回していた。「……もうじきトンネルに入る。その前に魔術で気配を消し、魔術を解き終えた後、一気に浄化する。だが、お前の銃は、
月の光が、静寂に包まれたふたりを淡く照らし出す。ルファルの紡いだ言葉が耳に届いた瞬間、リリシアの瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ、頬を伝った。視界は瞬く間に滲み、リリシアはその場に崩れ落ちるように膝を突く。「……っ、あ……」なぜ、自分はこれ程までに泣いているのだろうか。名もなき感情が胸の奥からせり上がり、喉を震わせる。リリシアは溢れる涙を隠すように、震える両手で顔を覆った。すると、ルファルがリリシアの前に静かにしゃがんだ。その大きな手が、リリシアの頭へと、ぽんと優しく置かれる。「……リリシア」慈しみに満ちた声で名を呼ばれ、リリシアが胸元まで手を下げて顔を上げると、ルフ







